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ノイタミナノベル「PSYCHO-PASS サイコパス/ゼロ 名前のない怪物」 第五章




公安局の光留さんへ

こんにちわー
瞳子です
このあいだは、黒髪の刑事さんからかばってくれてありがとうございました!
あのときは、ホントに死刑かも……って思って、すごく怖かったです……
でも、光留さんがかばってくれたおかげで、私は無事、学園に帰ることができました
今日はそのお礼を言いたくて、メールしてみました
って、このメール届いてるのかな?
心配なので、このメールを読んだら、すぐに返信すること!
私はあのあと案の定、先生にたっぷり怒られて……一ヶ月謹慎食らったよ
覚悟はしてたけどね……
でも、ちょうど冬期休業に入っちゃったから、一ヶ月って言ってもあんまダメージないかもです
ふつーにお家にいます
外出禁止だけど……
でもまあ、いつのも冬休みとあんまかわんないかなって思います
いまは、光留さんのアドバイス通り、お家の中で身近なものをいろいろ写真に撮っています
いい写真が撮れたら、光留さんにも送るから、また何かアドバイス下さい
写真と言えば
光留さん聞いて!!
実はね、こないだ私が言ってた、写真部の顧問の先生、覚えてる?
その先生がね、
私の写真に
初めて興味を持ってくれました〜!!
すごくない??
こないだ光留さんと扇島で会ったときに撮った写真なんだけど
光留さん覚えてるかな?
銀髪の、やたら綺麗な男の人いたでしょ?
あの人の写真みせたら、先生ちょっとびっくりして
マキシマ
って言ったんだよ!
知り合い?? だったのかも??
つまり、私の写真に興味持ってくれたっていうより、あの銀髪の男の人に興味を持ったってことなんだけど
でもね、それでも私、超嬉しかった!
あの藤間先生が少しでも表情を変えるって、滅多にないことだから
それだけで私、めちゃめちゃテンションあがったよ!
その写真添付するので、なんかアドバイス下さい!
いつも通りボケボケの写真なんだけど
えーと……
言いたいこといろいろ書いてたら、超長文になっちゃった
ごめんなさい
たぶんこれで、伝え忘れはないハズ

もういっこ
あの黒髪の刑事さんと、仲直りした?
私が言うのもなんだけど、早く仲直りしてくれたらいいなって思ってます
私からもごめんなさいって伝えておいて下さい
うん
コレで本当に言いたいこと全部
ホントに長くなっちゃった
ごめんなさい
それではまた!
お仕事頑張って下さい!

桐野瞳子より


長い雨が続いている。
佐々山はソファに深く身をゆだねたまま、こんもりと盛り上がった灰皿にタバコを押しつけると、天井に向かって煙を吹いた。
立ち上った煙は、シーリングファンにかき回されて闇に溶けていく。
奇妙な符号だ。
目の前に展開された瞳子からのメールに目を落とす。
藤間という教師を追って廃棄区画を訪れたという瞳子。
そんな瞳子の補導日に近接して発見された標本事件の被害者。
そして、血の香りのする銀髪の男。
先日は瞳子にドミネーターを向ける狡噛を叱咤したが、たしかに彼女の周りには何か標(しるべ)めいたものが集まっている。
瞳子自身には問題がないだろう。学生という管理を前提とした身分に身を置く彼女には、恐らくアリバイがある。
気になるのは、藤間という教師である。
瞳子の言葉が真実ならば、藤間も被害者発見の前日に廃棄区画をうろついていたことになる。
そして、おそらくマキシマという名であろう、あの男の存在。
あの男は佐々山の目にはあまりにも異様に映った。全身から漂う超越者然とした風格。あの男の瞳には、虫も人間もそう大差ない存在として映るのだろうという確信にも似た予感。
藤間という一介の教師が、あんなふうに玄人めいた男を知っているということが、佐々山にはどうしても気にかかる。
現状の情報だけで奴らと標本事件を結びつけるのは危険ではあるが、そうはいっても藤間とマキシマは捨て置けない存在だと、佐々山の中の何かが告げる。
しかし何を持って自分がそう思うのが、上手く言葉にできない。
「刑事の勘か……」
そう独りごちて、佐々山は自嘲気味に笑った。
狡噛には相談できない。
今はとてもそんな気になれない。
灰皿の中から比較的綺麗な吸い殻をつまみ上げ、火をつける。焦げた臭いが口の中に広がって、眉間の皺をさらに深くした。
しかし、狡噛に告げずに二人を調べたとしてどうなるだろうか。勝手な行動は自分の刑事人生を終幕へと導くことになるだろう。
だがそれもいい。
甘やかな諦念が体中に満ちて、佐々山は脱力する。
もうこれで終わりにしよう。
瞳子の笑顔が佐々山の脳裏をよぎった。
もしかしたら自分の行動は、瞳子の恋心をむげに扱う結果になるかもしれない。しかしそれを躊躇すれば、瞳子を危険にさらすことになるに違いない。
それだけは耐えられない。
ソファーの隙間に手を差し込み、一枚の写真を引っ張り出す。
写真の中では少女が髪に手を添え微笑んでいる。少し下がり気味の目尻が自分に似ている。
コレに似た写真を、この前撮ったな、と思う。
ファインダーの中で微笑んでいた瞳子と、写真の中の少女が重なった。

 2

「ちょっと!」
黙々とモニターを見つめる神月の背後で、二係監視官青柳璃彩(あおやなぎりさ)が声をあげた。
神月が身体を硬直させぎくしゃくと振り返ると、前下がりのボブヘアーをたゆんと弾ませながら冷たい瞳で彼を見下ろす青柳と目が合う。
「私の当直中に内職とは、随分勇気があるじゃない」
そう言って、神月の肩にがっつりと腕を回すとモニターを覗き込む。
慌てて見ていたファイルを閉じる神月を「ふーん」と横目で見ながら、ぎりぎりと腕に力を入れる。
「あ、痛い痛い、爪が……」
「薬品関連業者の洗い出しはもう終わったのかしら」
「それははい、今すぐ青柳執行官の端末に送ります、はい」
そう言うと神月は、モニタ上に展開されていたいくつかのファイルを素早くまとめ、送信手続きをとった。すぐに青柳の左腕にはめられた監視官用デバイスが電子音をあげる。
青柳は送られてきたファイルにさっと目を通すと、満足げな笑みを浮かべた。
「うん、よろしい。で? 何してんの。まさかアフィ稼ぎじゃないでしょうね? 執行官の副職は法律で禁止されてるのよ」
言いながら神月の頭を、拳でゴツゴツと叩く。その一打一打に律儀に「いてて」と反応しながら、神月は弁明する。
「違います違います! 仕事ですよれっきとした!」
しかし言葉での弁明だけでは青柳の連続殴打は阻止できなかったため、先ほど閉じたファイルを展開し彼女に示す。
私立の名門女子教育機関、桜霜学園の文字がモニターに踊り出る。
「桜霜学園……? 女子高生のパンチラでも探してたんでしょ! このやろっ!」
青柳の殴打が、いっそうその激しさを増す。
「ちーがーいーまーすってばぁ! ちゃんと、標本事件の関連調査ですってば」
「標本事件の? 何でそれで女子校なのよ」
青柳の問いかけに、神月は再び硬直した。人形のように静止しながらも、目だけはきょろきょろとさまよっている。
神月執行官は素直でいい子だけど、素直すぎるのが問題よね、そう心の中で独りごちて軽く息を吐いてから、彼の首元をつかみぎりぎりとつるし上げる。あくまでも顔には笑顔を湛えながら。
「言わないと、パラライザーお見舞いするわよ」
「ちょ、ええ? それパワハラ……っていうか、一応俺ら執行官にも基本的人権が……」
「あら? 法律解釈で私と争おうって言うの?」
「いえ、何でもありません、すいません」
わかればいいのよ、と首もとから手を離すと、神月はそのままストンと落ちて椅子の上でうなだれた。
「で? なんで女子校の教員データベースなんて開いてるのかな?」
「一係の佐々山に頼まれまして……」
「一係の? 何で一係の調査をあんたがやってんのよ」
「や、なんか、佐々山が自分じゃ動きづらいからって」
妙だ、という感覚が青柳の脳内を貫く。常に監視官との連携で行動することを義務づけられている執行官が、他の係のしかも執行官に直接調査協力を依頼することはあり得ない。
「動きづらいって、この件、一係の監視官には通ってないわけ?」
「そこまでは俺は……」
「おい」
「通ってないです」
やはりだ。一係の執行官が、独断で捜査にあたっている。監視官の指揮下以外での犯罪捜査は禁則事項にあたる。監視官の青柳がその事実を知ってしまった以上、見過ごすわけにはいかない。
「わかったわ。私から狡噛くんに話す」
「え、あ、いや、それは」
青柳はうろたえる神月に顔を寄せると、彼の視線を霜村監視官のデスクに誘導する。
「うちの大将に見つかって大事にならないように私が取りはからってあげるって言ってるんだから、あんたはもうおとなしくしてな」
何事にも実績を求める霜村だ。彼の辞書に温情解決という言葉は存在しない。ここで下手に見逃して、ことが霜村の耳に入ろうものなら、懲戒レベルの大事になることは目に見えている。できることなら狡噛と同期の自分の裁量で解決したいと青柳は思った。
「だいたい、うちの大将が一係を目の敵にしてることぐらい知ってるでしょ。あんたが協力してどうすんのよ」
指を立て、美しく伸びた爪を神月の眉間に押しつけると、神月も困惑顔で言い返す。
「でも、しょーじきなところ、俺らの調査だってどん詰まりじゃないですか。医療関係駄目、薬品関係駄目、学者関係みんな駄目。藁にもすがる気持ちっつーか」
「それは十分承知の助よ」
「承知の助って……。青柳さん時々変な言葉使うよな」
「粋と言いなさい」
神月の眉間をぴんとはじく。
「で? 佐々山くんなんだって?」
「やっぱ興味あるんじゃないですか」
「そりゃそうよ。手がかりのない捜査に辟易してるのは私も一緒。それに佐々山くんの捜査能力には私も一目置いてるしね」
佐々山のもたらしたヒントが有効ならば、それを二係が引き継いで調査すればいい。あわよくば自分の手柄に、という思惑を隠そうとしないところが青柳の信頼に足るポイントだ、と神月は思う。
「桜霜学園の藤間っていう教師について調べてくれって」
「藤間?」
「被害者発見の前日に、廃棄区画付近で目撃情報があるらしくて。で実際調べてみたら、こいつがなかなかやっかいな経歴の持ち主でね……」



「一四歳で廃棄区画内で保護……?」
シャワーで濡れた頭をタオルでおおざっぱにかき回しながら、佐々山は神月から送られてきた資料に目を通していた。
桜霜学園社会科教諭で瞳子の想い人――藤間幸三郎の資料だ。
添付された写真データを見ると、柔和な面持ちに左頬の泣きぼくろが艶めかしく、なるほどいかにも女子高生が好意を寄せそうな男だと思う。
佐々山の短髪から滴がしたたり、ホログラムにノイズを生んだ。

藤間幸三郎――一四歳(推定)時、扇島地下廃道内で浮浪しているところを、人権団体により保護。
保護された際記憶喪失状態であった。
よってそれまでの経歴不明。
保護者らしき人物は発見されず。
戸籍無し。
  
「戸籍無し? 藤間も無戸籍者だったのか?」
資料に視線を預けたままソファに座り込むと、片手でタバコを取り出し火をつける。
目の前に立ちこめる煙を気の急く様子で払い、資料を読み続ける。

その後は児童養護施設で育ち、他から遅れること五年で教育機関を卒業。
本年度教師の職に就く。
メンタルヘルス、知力ともに良好。
一四年の空白期間を一切感じさせない成長に、施設関係者からの評価も高い。

「一四年間も廃棄区画で浮浪児やってて、メンタルヘルスが良好?」
そんなことがあり得るのだろうか。
シビュラはどんな些細な色相の悪化も正確に嗅ぎつける。そんなシビュラ判定に一喜一憂し、日々の色相ケアに血眼になっているのがこの国の一般的な国民だ。
上司に怒られては色相ケア、恋人に振られては色相ケア、はては雨が降っても風が吹いても色相ケアに奔走する。それほどまでに、周辺環境が色相に及ぼす影響は大きいと考えられているし、実際問題それは正しい。
それなのに、藤間は保護されてからこれまでにわたって、一貫して健常な数値をキープし続けている。
保護児童への温情か? 
勿論、平等をモットーとしたシビュラにそんな機能はない。
特殊な薬剤の服用か?
それなら考えられるが、そんな強力な薬を長期にわたって使用して、なんらかの精神的不虞が発生しないとは考えにくい。
生まれついての、とんでもない人格者か?
そうなってくると、『俗人』というプラカードを首から提げて生きているような自分には、及びもつかない人物ということになる。何か妙だ。
疑惑が、半紙に垂らした薄墨のように佐々山の中に広がっていく。
佐々山は再びタオルごと頭をかき回す。滴が飛沫し、藤間の顔写真を歪ませた。
ただ、この藤間という男がシビュラによって善人と認定されているということは確かだ。
犯罪に関わるなどあり得ない、虫も殺さぬような人間だと。
だとすれば、やはり藤間は事件には無関係なのか。ならば何故、マキシマという男とつながりがあるのだろう。
思考は留まることなく巡る。
タバコの火が吸い口まで迫り佐々山の指を熱くして、ようやくその思考に小休止を与えた。



とんだ屈辱だ。
怒りで頭に血が上り、おかげで視野が狭くなっている。
それほどの怒りを全身に宿しながら、狡噛は執行官隔離区画の廊下をひた走った。
先ほど同期入局の青柳監視官から告げられた事実が体中を駆け回り、血液を沸騰させる。
佐々山が、自分の目を盗んで標本事件の捜査をしている――
それを同期の、しかも別の係の監視官から指摘されたことがとにかくやりきれない。これまでの五年間、狡噛が佐々山と必死で築いてきた信頼関係を全て反故にされたような気がして胸が疼く。
この怒りが佐々山に向いているのか、自分自身のふがいなさに向いているのか、そんな思慮さえかなぐり捨てて、狡噛は走った。
途中執行官ラウンジで征陸が狡噛を晩酌に誘ったが、狡噛の狭窄した視野に彼は映らなかった。
佐々山の部屋の前まで来ると呼び鈴も押さず、監視官権限でドアキーを解除して押し入る。短い廊下を大股でやり過ごし、リビングへ通じる扉を開けると、上半身裸で頭からタオルを被った佐々山が狡噛を迎えた。
「なんだよ狡噛。俺今まさにズボンはいたとこだぜ? もうちっとデリカシーってもんをさ……」
佐々山はいつもの調子で軽口を叩きかけたが、狡噛の異常な様子に気づき、すぐに口をつぐんだ。
狡噛がなんのために自分の部屋を訪れたのかは明白だ。
目の前に展開されている藤間幸三郎の資料と、狡噛の怒気をはらんだ表情。それを交互に見比べて軽くため息をつき、あとは黙った。
佐々山はこうなることを予想していなかったわけではない。ただ、こうなったときに自分が狡噛に何を語るのか、それは考えていなかった。考えたところで、何かが好転する気もしなかったし、好転させようと思わなかった。
吸いかけのタバコを灰皿に押しつけ、煙の行方を目で追う。
しんとした空気が空間を満たす。
口火を切ったのは狡噛だった。
「佐々山、お前……二係の神月に調査協力を要請していたらしいな」
「ああ」
「監視官の指揮下以外で、執行官が勝手に行動することは許されていない」
「知ってるよ」
「なら何故俺に言わなかった」
「お前に言ってどうなる」
佐々山の言葉に、狡噛はぐっと息を詰める。
狡噛の視線がさまようのを見て、佐々山はさらに言葉を続けた。
「お前に、藤間が気にかかる、これは刑事の勘だと言ったところで、お前はそれを信用するのか」
「当たり前だ」
狡噛の声が明らかに浮ついていて、佐々山は思わず鼻で笑う。
「よく言うよ」
「俺は! 監視官として、執行官には常に信頼を置いている。だからお前も俺を軽んじるようなことは……」
狡噛の言葉を遮って、佐々山がローテーブルに拳を叩きつけた。
激しい音と共に灰皿がひっくり返り、床に転がる。灰がもうもうと舞い、煤けた香りが部屋いっぱいに広がって、もう何もかもが煩わしいという思いが、佐々山を支配していく。
「だからな?!」
水気を含んだタオルを、灰の散らばる床に叩きつけて佐々山は声をあげる。
「んなもん初めっからねぇんだよ! 俺達の間にあるのは信頼なんかじゃねぇ! ただ、飼うか飼われるかの関係だ!」
佐々山の言葉に反応し、狡噛の瞳に否定の炎が灯る。その炎が佐々山を、さらに凶暴な感情に駆り立てる。
「狡噛、お前こないだ、刑事の勘だと言った俺を鼻で笑ったな」
狡噛の胸の内が、冷や水を浴びせられたように寒々とする。
「信頼信頼言ってても、お前自身に俺を信頼する気がねぇ。上っ面では大切な相棒気取ってても、その実、執行官のこと頭のおかしい狂犬だと思ってる。そうだろ? お前のそういうところ、虫ずが走る」
佐々山は、目の前にいるこの有能で純粋な男を、どこまでも否定してやりたいと思った。彼の信条、信念、そういったものを全部ぶちこわす権利が、何故か自分にはあると思った。その権利の代償として、自分の全てをなげうってもいい。いや、自分の全てをなげうちたいがために、狡噛に牙を剝いていた。
佐々山は、藤間幸三郎に関する調査を独自に展開していこうと決意した時点で、自分の刑事人生の終結をある程度覚悟していた。できることならば全てを見届けてから公安局を去りたかったが、そんな望みは激情に流されてどこかへ消えた。
「別に悪いことじゃない。当たり前のことだ。執行官の俺自身がわきまえりゃいいことだし、実際今までそうやってきた」
言いながらやりきれない思いがこみ上げてくる。
「ただもう……バカらしい……。そうまでして執行官って職業にしがみついてるのが……」
そこまで言うと、佐々山は思い出したように床に落ちた吸い殻を拾い始める。
薄明かりの中背を丸め、床にしゃがみ込む佐々山は余りに小さくて、狡噛はただ呆然とその姿を見つめていた。
「俺を撃ちたくないと言ったな。だが方法はいくらでもある。上に進言するなりなんなりすればいい。そうすりゃ俺はすぐに施設送りだ。お前の気の済むようにしろ」
佐々山はまとめた吸い殻を器用にゴミ箱に放り投げると、立ち上がりながら言った。
「ただ、藤間の件はお前が引き継げ。信頼しなくてもいい。俺の置き土産だと思って、な」
狡噛のデバイスが、ファイルの受信を告げる。
それを見届けて、佐々山は静かに部屋を出て行った。

主のいない部屋で、狡噛は一人茫漠と立ち尽くした。
佐々山がいなくてもこの部屋はヤニ臭い。
佐々山が執行官になって以来ずっと、この部屋はタバコの煙に燻され続けているのだ。当然臭いも染み付く。壁も電灯もヤニで煤け、この部屋の明度を他より数段落としている。それだけの年月を、佐々山は執行官として過ごしてきたということだ。
それは佐々山が執行官という職業に少なからず意義を見いだしていたということを示している、狡噛はそう思っていた。しかし、先ほどの佐々山の発言は、彼に執行官を続ける意志がないということを明確に表していた。
公安局に配属されてからというもの、狡噛の刑事活動は佐々山とともにあったといって過言ではない。
別に狡噛が望んだことではないが、狡噛に輪をかけて杓子定規な宜野座と一係の監視官を任されるにあたって、自然と佐々山と組む機会が多くなった。狡噛にとって監視官の職務とはすなわち佐々山の監視であり、それをまっとうすることが自分の職責だと、いつのまにか思うようになった。
そんな狡噛にとって佐々山を失うことは自分の職務上の指針を失うことと同等である。自分が足下から崩れていくような気がして、立っているだけで精一杯だった。
「おう」
不意に後ろから声がして、狡噛は振り返る。
酒瓶をちょうど顔の横あたりにかかげて、征陸が立っていた。
「ちょっと俺の部屋で一杯付き合わねぇか?」
そう言うと征陸は顔に刻まれた皺を深くして、くしゃりと笑った。


続きは、2013年4月4日(木)、マッグガーデンより発売の小説
「PSYCHO-PASS サイコパス/ゼロ 名前のない怪物」にてお楽しみにください!
詳しくは公式グッズページまで!
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