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ノイタミナノベル「つり球」 第6話


作・大野敏哉


 夏休みに入ると、ユキはハルと夏樹と三人で過ごす時間が多くなった。まず朝に釣り場に集合して釣りをして、お腹が空いたら駅前のバーガーショップに駆け込む。話題は学校のことでも女の子の話でもない。たいがいは釣りの話だ。
「そっか、やっぱり欲しくなったか」
 そう言う夏樹の声は弾んでいる。
「うん。やっぱこういうの見てるといいなぁって」
 ユキは最近釣り雑誌を持ち歩くようになった。見るのはもっぱら釣り具のページだ。いくら海咲さんが優しいからといって、いつまでも道具を借りっぱなしにしている訳にはいかない。
「俺もそうだったなぁ」夏樹が十七歳のくせして遠い目をして言う。「本格的に釣りにハマったのって自分の道具持ってからだったもんなぁ」
 でも、とユキはいつも思う。正直、釣り具は安くはないのだ。もちろん安いものもあるが、三歳から釣りをしているベテランの夏樹いわく「どうせ買うならちょっといいのを買っといた方がいい」らしい。
「でも、お金ないしなぁ……」
 ため息をつくユキの視界に、笑顔の男女の写真が飛び込んできた。バーガーショップのバイト募集のポスターだ。
 ユキは、自分があの鮮やかな色の制服を着て働く姿を想像してみた。笑顔で、大きな声でこう言う。「いらっしゃいませー!」
 だめだ。いくらなんでも、眩しすぎる。
 そう思ったら、顔がすっかり般若になっていた。
「ないな」夏樹がユキの気の毒な未来を憂いた。
 ハルも特大バーガーを口の中でモゴモゴさせながら言った。「ないねー」

 肩を落として店から出て来るユキに夏樹が言う。
「とりあえず、見るだけ見に行くか」
 いつものコースの続きだ。昼ご飯を食べた後に、特に用事もなくHEMINGWAYに立ち寄ってロッドやリールを眺める。その後はまた釣りに出かけるか、気が向かなければ夏樹はそのまま店を手伝って、ユキとハルはケイトの顔を見に病院へ行く。
 夏休みに入ってから、毎日のように繰り返している定番コース。しかし今日、夏樹はいつもと違う一言を付け加えた。
「船長、来てるかもしれないしな」

「じゅ、十万?」
 ユキはHEMINGWAYの店内で、ロッドとリールを手に呆然と立ち尽くした。
「そうね」と、ユキの釣りの世界の女門番、海咲が事もなげに言う。「そのロッドとリールと、あとルアーとかウェアとか、なんだかんだ揃えたら大体そのぐらいね」
 もちろんユキは今すぐ買うつもりなんてなかった。試しにお目当てのロッドとリールを手に取り、海咲に値段を尋ねただけだ。しかしそこで釣りの世界の過酷な現実にぶち当たってしまったのだ。
 釣り歴十四年の夏樹が、めいっぱいの余裕と、それと同じぐらいの同情をその顔に浮かべ、ユキの肩にぽんと手を置いた。
「ま、本気でやろうと思ったらそのぐらいはかかっちゃうんだよなぁ」
 何もわかっていないはずのハルがうんうんと頷く。
 そんな金、あるわけないじゃん……
 これでもかというぐらい肩を落としたユキを、これまた釣りのベテランのアキラが「若僧が」という目で見ていた。カフェコーナーのカウンター席で、お気に入りのバタージンジャーチャーイを口に含みながら。
 と、そこへ、曇った空に鮮やかなピンクのペンキをぶちまいたように、海の男が入って来た。
「たーっ、暑っちぃーなー!」
 歩だ。一体何枚持っているのかわからないが、今日も鮮やかなピンクのTシャツを着ている。歩は視界に入った人間を一人ずつ順番に倒すゲームのように、相手の答えも待たずに次々撃破していく。
「どーも海咲さん。ええ、暑過ぎますよねー。よう夏樹。こんな暑いと溶けちゃうよなぁ。そうかハル、お前の星はチョー涼しいのか。今度連れてってくれよ。おいインド、お前取れよ、その頭の巻き物。見てるだけでこっちまで暑くなるだろーが!」
 そして呆気にとられて見ていたユキも、超至近距離からの攻撃であっさりと倒された。
「よう少年! 釣ってるかぁー!?」
 だ、誰!?
 見事全員倒し切った歩は、既に顔がこわばり始めたユキにまるで悪気のない豪快な笑みを残し、お気に入りのカウンター席にひょいっと腰かけた。注文はいつもの「熱っつーい紅茶」だ。
「あれが船長」夏樹がユキに囁いた。
「船長?」
 歩はHEMINGWAYのすぐ近くの、釣り船屋の若き主人だという。
「俺の兄貴みたいな人でさ、いい人なんだ」
「そう。歩ちゃんチョーいい人」
 ハル、お前またいつの間に仲良くなってんだよ。
 ユキは恐る恐る歩の方を見る。大きな声で笑う人や、初対面で話しかけてくる人は正直苦手だが、なるほど悪い人ではなさそうだ。なぜなら歩は今、その両手に店長とタピオカを抱いているのだから。
 それでも警戒心を解けないまま歩を見るユキに夏樹が囁く。「お前、金欲しいだろ?」
「え……うん」
「店員は無理でも、釣りならなんとかなるんじゃないか?」
「え、釣り?」
 するとそこへハルが割り込んでごもっともなことを言った。「夏樹ぃ、釣りしてもお金もらえないよ」
「それがもらえちゃうんだなぁ」
 夏樹は微笑み、ユキとハルを連れて歩の元へ向かう。
「船長、今年、この三人で働かせてくれないかな?」
 ユキは訳がわからず夏樹を見る。
「夏休み、三人で船長の釣り船でバイトさせて欲しいんだけど」
 え、釣り船でバイト? そんなのできるの?
 その時、カウンター席が勢いよくくるっと回って歩が振り返った。そして席から降り、警戒するユキの前に立ち、にゅっと顔を近づけた。
 こ、怖い!
 歩はさっきまでの笑顔はどこへやら、傷のついた方の眉をしかめ、じっとユキを見る。
 すごい見てる。何これ、面接?
 歩は一秒たりとも目をそらさない。
 え、何? どうすればいいの!?
 一瞬にして緊迫した状況の中、海咲も、アキラも、そして店長やタピオカまでもが、ユキと歩に注目し始めた。
「船長、頼むよ」夏樹が助け舟を出すように切り出した。「こいつ釣り本気になってきてさ、どうしても自分の釣り具が欲しいんだよ」
 しかし歩は息をつき、ユキに背を向けた。
 え……不合格、ってこと?
 訳がわからぬまま、釣りの世界の門の前で立ち尽くすユキに、再び歩が振り返って、叫んだ。
「よっしゃごうかーーくっっ!」
 え!?
 するとハルがそれを真似て叫んだ。
「よっしゃ合格ぅーーー!」
 海咲は微笑み、アキラは「意味がわからない」といった顔で再びチャーイの世界へ戻り、店長とタピオカは思い出したように互いを警戒し始めた。
 夏樹はといえば、もちろん微笑んでいた。
「よかったな。ありがと船長」
「じゃあ明日から来い!」
 あ、明日!? 
 何もかも唐突過ぎて、もはやついて行けない。
「よろしくお願いします!」
「よろしくぅー!」
 ユキは夏樹とハルの言葉に背中を押されたが、何も言えないまま、ペコリと頭だけ下げた。
 歩はうつむくユキを見て微笑み、「大丈夫」とその肩をちょっと強めに叩いた。
「俺の船に乗りゃあ三日で海の男になれる!」
 海の、男? 俺が!?
「さすが歩ちゃん。頼りになるわね~♪」
 夏樹は「始まったぞ」とばかりに微笑んだ。
 アキラは呆れたように小さく首を横に振った。
「ちょっと失礼」歩はそう言い残すと、全速力で店を出て行き、「やったぞぉーーーー!」と真夏の海に叫んだ。
 ハルは笑ったが、突然ピンクの嵐に巻き込まれたユキはただぽかんと口を開けて見るしかなかった。
 そしてすぐに不安が襲ってきた。アルバイトなんて、生まれて一度もしたことがない。
 できるのかな、俺に、バイトなんて……

「バイト?」
 暮れゆく空の下、ユキの家の庭で水撒きをするハルにココが尋ねた。
「そう。働いてお金もらうことぉー」
「それは知っちょるけど」ココはハルが自慢げに地球のことを話すと決まって少しムっとした顔になる。地球のことはハルより自分の方が遥かによく知っている。「そんなんして釣りうまなるんけ?」
 ココはバイトにも海の男にも興味はない。ただユキの釣りの腕が上達して、江の島の海に潜む魚を釣ってくれればそれでいい。そうすれば星に帰れるのだから。
「だって船だよ。毎日釣りシホーダイ!」
 ハルはココの心配などまるで気にしていないように無邪気にホースを振り回す。
「ばってん、にいちゃん、あんまり沖の方行ったらあかんで。あいつがおったら危ないしな」
 しかしホースという新しいおもちゃを手にしたハルの耳に、その忠告が届くことはなかった。

「あいつ……」
 アキラが監視モニターを見ながら低い声で呟いた。
「あいつ」とは、この前ハルが言っていた「でっかい魚」のことか? それは本当に魚なのか?
 パソコンの画面からは、CGのアヒルによる「バミューダシンドローム」の説明画像が流れている。
 CGアヒルの羽根が世界地図の、ある部分を線で結んで三角形を描く。フロリダ半島の先端、プエルトリコ、バミューダ諸島。それはバミューダトライアングルと呼ばれ、その三角形の海域では、古くから船舶や航空機が何の痕跡も残さず消息を絶つなど、不可思議な現象が起きている。そしてそれによく似た現象が今も地球上の様々な場所で起きている。CGアヒルによればそれを「バミューダシンドローム」と呼ぶのだという。DUCKのエリートたちは、それを異星人による仕業ではないかと睨み、調査を続けているのだ。
「まさかな」とアキラは、モニターの中で水を掛け合うハルとココを見て呟く。
 まさかあんなふざけた奴らが、そんな地球規模の現象に関係しているなんて……しかし油断は禁物。
「仕方ない。俺も行くしかないな、船釣り」
 アキラの目が輝いた。しかしそれは異星人探索機関DUCKの一員としてではない。一人の釣り人、いわゆるアングラーとしてだ。
 アキラは、いつの間にか責めるような視線を送っていたタピオカに言い訳するように言った。
「違う。これは任務だ」

「みなさん、おはよーございます!」
 歩が「青春丸」と豪快に書かれた自分の釣り船の前に立ち、明け方からまだ見ぬ魚たちを狙いに来た釣り客たちに言った。その中には、ライフジャケットを着込んだ、バイト初日のユキとハルと夏樹の姿もある。
「見てください! ザ・夏晴れ! まさしくシイラ日和! シイラぁー、待ってろよぉー!」
 歩が遊園地のアトラクションのベテランMCのようにそう叫ぶと、客たちは一気に和み、その顔に笑みがこぼれた。
 ハルはその空気にワクワクを隠せない様子だったが、その隣に立つユキは、人生初のバイトを前に足が竦む思いだった。
 そんな不安に気づいたのか、夏樹がユキに、今日の獲物であるシイラの話を始めた。シイラは大きいのになると二メートル近くはある。釣るのは難しくないが、暴れるから引きが強い。そして、
「見た目も綺麗だぞ。興奮すると色が変わるんだ」
「ほんとに?」ユキが緊張を一瞬忘れ、昨日釣り雑誌で初めてその姿を見たシイラという魚に思いを馳せる。「俺も、釣りたいな」と、顔を見合わせて微笑む三人の視界の隅に、黄色いライフジャケットの男の姿が映った。
「お前、何してんだ?」
 それは、全身釣りフル装備で、自分とお揃いの小さなライフジャケットをつけたタピオカを抱く、アキラだった。
「何って、釣りだよ」
「クワっ」とタピオカが鳴いた。
 するとさっきまで今日の空にも負けないほどの笑顔を見せていたハルが、さっとユキの後ろに隠れた。

 青春丸が港を離れ、朝陽がばらまかれた海へと漕ぎ出した。すると不安で沈みかけていたユキの心も朝陽のおこぼれを受け、深い海から一気に天井知らずの空へと駆け上がった。
 すごい。
 そんなお決まりの言葉をあっさり弾き返すほど、目の前で見る海というのものは力強かった。
 やっぱり、来てよかったな。
 心からそう思ったユキだったが、海も空も、ユキが知らないだけで、美しさとは真逆の残酷さを兼ね備えていた。ユキがそのことを知ったのは、船が風と波を受けてガタンと揺れた時だった。
 わっ!
 情けない声を上げた次の瞬間、ユキの目に飛び込んできたのは海でも空でもなく、軋む船の床だった。
 抵抗する間もなく転んでしまったユキは、立て続けに襲う揺れに怯え、必死で手すりに掴まった。
そして同じく驚いているハルと目が合った。
 船って、こんなに揺れるの!?
「ユキ、ハル、タモ持て」
 突然パニック映画の主人公になった気分のユキからすれば、夏樹のその声は落ち着き過ぎていた。
 信じられないことに、夏樹は揺れる船の上を、事もなげに歩き回っているのだ。
 え、夏樹、なんで平気なの!?
 見渡せば、平気なのは夏樹だけではない。アキラは淡々とリールの手入れをしているし、中年男性が目立つ釣り客たちも、ロッドを手に誰が一番大きなシイラを釣るかなどと笑顔で話している。
 腰を落として手すりに掴まっているのはユキとハルだけだ。
 ユキは船の後方に掛けられたタモを見た。それは客が釣り上げたシイラをすくうためのものだ。その大事な役割を担うのは、誰あろうバイトである自分たちだ。
 ユキは勇気を出して手すりから手を離し、タモへと走った。しかしあっという間にまっすぐだった体はよろけ、豪快に転んでしまった。すぐに何もなかったように起き上がって見せたが、客たちの目はごまかせず、ユキの顔は見る見るこわばり始めた。
 こ、こんなの、無理だって!
「タモタモー!」
 ユキを真似て走り出したハルもすぐに体勢を崩した。ユキは「危ない!」と目を閉じたが、ハルは豪快によろめき過ぎて宙に浮いた体をクルっと一回転させ、体操選手のようにポーズを決めて着地した。
「おーっ、一〇点満点!」
 歩の大きな声に、釣り客たちが笑った。
 笑っていないのはユキだけだ。「あ、全然平気じゃーん」と普通に歩き出したハルを見て、ユキは自分だけ合格通知に名前がなかった受験生のように、その場に取り残された。
 夏樹は不安げな顔で歩を見た。
 歩はただ微笑んで、頷いただけだった。

「あー、夏樹ズルーい! 釣りしてるぅー!」
 すっかり揺れに慣れたハルが、みよしと呼ばれる船の先端に立って釣りをしている夏樹を責めた。
「違うよ。インストだよ」
 夏樹の役割は、シイラインストラクターという、はじめの一匹を釣る仕事なのだという。
「あいつら一匹かかったらみんなついて来て入れ食いになるんだ。そしたらお客さんもみんな釣れるだろ?」
「ナルホドー。夏樹、そのメガネ変」
 ハルが、夏樹がしているちょっと大げさなサングラスのような眼鏡をからかう。
「これは偏光グラス。これかけたら水ん中の魚もはっきり見えるんだ」
「え、いーなー。貸して貸してー!」
「後でな」夏樹は駄々をこねる子供の話をそらすように、ハルに自らの役割を思い出させた。
「お客さん釣れたらすぐタモ出せよ。でかいの上げる時はどうすんだっけ?」
 するとハルはタモを床と垂直に持ち、下からぐいっとすくい上げた。「スイチョクー」
「そう。水平だと折れやすいからな。ユキも頼んだぞ」
 夏樹の背後でまだ手すりに掴まっているユキは、「見つかっちゃった」とばかりにバツの悪い顔で頷いた。その顔は不安と申し訳なさで押しつぶされそうだったが、夏樹がシイラを釣り上げる姿を見ると、思わず食い入るようにそれを見つめた。
 夏樹はルアーでシイラを引っ掛けると、釣り上げたりせず、海面を見て「見ろ」と言った。
 肉眼でも見える。そこには夏樹が釣ったシイラに引き寄せられたシイラの群れがいたのだ。
「わーっ、すごーい!」ハルが声を上げた。
「投げてくださーい!」
 夏樹が振り返って叫ぶと、客たちは一斉にその群れに向かってルアーを投げ始めた。するとそのルアーに面白いようにシイラがかかり、客たちは次々と叫んだ。「にいちゃん、タモ!」
「オッケー!」ハルがタモを持って走る。
 ユキも覚悟を決め、手すりを離して歩き出す。
何度も転びながらも、なんとか客のところまでたどり着き、タモでシイラをすくおうとするが、お、重いっ!
 足元がぐらつくユキにとって、激しく暴れるシイラは重過ぎた。それでも無我夢中ですくい上げようとするが、その時、タモを水平に上げてしまい、柄がポキっと折れてしまった。
「あっ!」
 必死でタモの先を掴みとったが、肝心のシイラは海の中へと沈んで行ってしまった。
 夏樹が「やっちまったか」と天を仰ぐ。
 ユキは「何やってんだよ」と睨む客に謝ろうとするが言葉が出て来ず、それどころかテンパってどんどんしかめっ面になり始める。
「な、何怒ってんだお前!」
 いや、これは、違うんです!
 客が怒るのも無理はない。せっかく釣り上げかけたシイラをバラされ、おまけに般若のような顔で睨まれているのだから。
 あぁどうしよう。めちゃめちゃ怒ってる!
 客が今にもユキに掴みかからんとしたその時、歩が二人の間に割って入った。
「もーしわけないっ! お客さん、次に賭けましょう!」
 その天真爛漫な笑顔を見たら、客もそれ以上怒るわけにはいかなくなった。「次は頼むよ、にいちゃん」
 ユキは折れたタモを抱え、何度も頷く。そして「絶対船長に怒られる!」と思ったが、歩は笑顔のままユキの肩をぐっと抱き寄せ、囁いた。
「あれ、古かったから気にすんな」
 そして歩は不安げにこちらを見る客たちに、ユキの般若顔を見せた。
「ほら、見てこいつの顔! お前はオコゼか!」
「オコゼオコゼー!」ハルがそう言って笑うと、船の中は笑顔で満杯になった。
 夏樹は我が事のように胸を撫でおろした。
 ユキは最悪の事態から救ってくれた歩に感謝した。でも恥ずかしくて情けなくて何も言えなかった。
 そんな一連のやり取りを興味なさげに見ていたアキラだったが、そのルアーにシイラがかかると、その表情は興奮と喜びで一変した。
「フィッシュ! フィッシュ、フィーーッシュ!」
 夏樹がサっとタモを出し、我を忘れて叫ぶアキラに言った。「お前、意外と熱いな」
 アキラは我に返り、これ以上ないほどにわざとらしい咳払いをした。

 夕陽を丸ごとこぼしたような海の中、青春丸が港に戻って来る。
「はい。一日目、おつかれさまでした!」
 歩が給料袋を差し出すと、ハルと夏樹は笑顔で受け取ったが、ユキはただうつむくだけだった。
「ユキ、ナンデ?」ハルが人生初の給料袋をその胸に抱きしめて、ユキに言う。「お金ないと釣竿買えないよ」
 ユキが何も言えずに首を横に振ると、歩は驚くほどの力でユキの肩を叩いた。
 い、痛たたっ!
「大丈夫だユキ。まだ一日目だろ」
「でも……」やっと絞り出したその声は、恥ずかしさと情けなさにあふれていた。
「いいからとっとけ」歩はユキに強引に給料袋を握らせると、「じゃあまた明日なー!」と鼻歌交じりに去って行った。

 その夜、ハルは給料袋を抱きしめたままリビングのソファで眠ってしまった。寝言は、「ユキ、オコゼー」。
 そのオコゼは頑張って何度も瞼を閉じたが、しばらく眠りにつけなかった。頭の中を三倍速で流れる今日の出来事。思い出したくないシーンで何度も停まった。船の上で豪快に転んだ。怒るお客さんの顔。そして「気にするな」と微笑む歩。目を開けても、その記憶は頭の中から消えることはなかった。

 次の日の朝。ユキは時間になっても青春丸の前に現れなかった。
「ハル、なんで一緒に来なかったんだ?」
 夏樹はハルにイライラをぶつける。
「だってユキ、先行っててって」
 そこへアキラが来て一同を急かす。
「もう出る時間じゃないのか?」
「また来たのかお前」夏樹が呆れた。
「待っても無駄だよ」アキラが恋人を待つ女の子から一輪の花を奪うように言い放った。
「お前らわかってないな。あんなふうにみんなの前で恥かいて、来れるわけないだろ」
「わかってないのはお前だよ」夏樹がアキラから一輪の花を奪い返すように反論する。「ユキは来る。あんなんでへこたれる奴じゃねえ」
 出航の準備をしていた歩はそれを聞いてフっと微笑む。アキラも同じように微笑んだが、その意味はまるで違っていた。「いや、来ないよ彼は」
「お前さ、友達いねえだろ」夏樹のその不意打ちのパンチは、アキラを初めてぐらつかせた。
 その時、ハルが叫んだ。「ユキ!」
 一同が見たその先、ユキが猛ダッシュで走って来た。「ごめん!」その手にはタモが握られている。昨日無残にも二つに分かれてしまったそれは、今、黒いテープでがっちりとつなぎとめられている。
「お前、それ直してたのか?」そう言う夏樹の顔に初めて笑みが浮かぶ。
 照れ臭くて頷くユキを、夏樹も、ハルも、そして歩も笑顔で受け止めた。アキラだけが、そのどんでん返しの結末に不服そうだった。
「皆さん、おはよーございます!」
 歩は昨日と同じ笑顔で釣り客たちに叫んだ。

「飲み物です。飲み物です……」
 出航前の青春丸の上。ユキのその声は、ハルの「飲み物でーす!」の何分の一ほどの大きさだったが、それでも必死で初対面の人に話しかけ、飲み物を手渡していた。そこまではまずまずだったが、やがて船が動き出すと、ユキは一目散に手すりへと走った。

「いいか、シイラっていうのはな」
 ユキは手すりに掴まったまま夏樹のシイラ釣り講義に耳を傾けていた。「流木とか漂流物がたまりやすい潮目にいるんだ。そこを狙って正確にキャストする」
 夏樹は見事なキャスティングを見せ、ロッドを左右に動かし始めた。「あとはこうやって左右にジャーキングして誘い出す……ほら来た!」
 夏樹の偏光グラス越しの視界にシイラの群れが現れた。
 ユキは思わず身を乗り出す。
「かかったらまずロッドを立てて巻く。シイラが走ったら耐える。走るのをやめたら巻く。この繰り返しでシイラが疲れるのを待つんだ」
 そして夏樹のルアーにシイラがかかり、シイラの群れが吸い寄せられるように集まった。
「投げてくださーい!」
 ユキは誇らしく叫ぶ夏樹を見て、その胸に純粋な憧れがあふれた。
 夏樹、カッコいいな。俺も釣りたい!
 その時、ハルがユキを見て微笑んだ。「あー!」
 何が起こったかわからないユキだったが、ハルが続けた言葉を聞いて、自分で自分を疑った。
「ユキ、立ってるぅー!」
 そう。ユキは立っていた。船の上で、どこにも掴まらずに、自分の足で。
 ほんとだ。俺、立ってる!
 夏樹とハルが微笑み、そして歩が言った。
「さぁ、あとは楽しむだけだな」
 ユキはタモを手に、釣れ始めた客の元へ走る。
「スイチョクー!」というハルの声に頷き、タモを慎重に海の中へ入れ、垂直に引き上げた。
「やった」思わず口に出した。
こんなこと、喜ぶほどでもない、小さなことなのかもしれない。でも俺は昨日ここで立つことさえできなかったんだ。すごいじゃないか。やればできるじゃないか!
 ユキは船の上で暴れるシイラに怯えながらも、はじめて自分を褒めてみた。

 その日、ユキは少しだけ胸を張って歩が差し出した給料袋を受け取った。夏樹に比べれば、いや、あのハルに比べてだって、俺はまだまだ役に立ってないかもしれない。でも、嬉しい。なんだか、すごく嬉しいんだ。

 暮れかかる空の下、ケイトが残した風鈴が、少しだけ前に進んだユキを祝うように鳴っている。
 ハルはユキがゆでてくれたそうめんをズルズル音を立てて食べながら尋ねた。「ねぇユキ、なんで今日急に立てた?」
「わかんないけど」ユキはちょっと照れくさそうに目を伏せた。「夏樹がシイラ釣るの見てて、気づいたら」
「すごーい!」ハルは大げさすぎるほど喜んで、テーブルの上のケイトに話しかけた。「ねぇケイト、聞いた?」ハルは花たちの答えを待ちきれずに耳を傾ける。「何なに? そっかぁ」そしてユキにその答えを伝えた。「ユキはね、きっと釣りが楽しいから立てたのよ、だってさ」
「いいから早く食べろよ」ユキはぶっきらぼうにそう言いながら、初めての感覚に戸惑っていた。
 人って、嬉しすぎると、ちょっと恥ずかしかったりするんだな。知らなかった……

 釣り船バイトにも少し慣れ始めたある日、ユキは夏樹が歩と頷き合うのを見た。
 そして夏樹が笑顔でユキの元へ来て、ユキにシイラ用のロッドを差し出した。
 え?

 夏樹に押されるようにみよしに上がったユキだったが、思った以上に目の前の柵は低く、時折訪れる激しい揺れの中、今にも海に落ちそうな気がして、慌てて引き返した。「やっぱ無理……」
 しかし夏樹がすぐに立ちはだかる。
「やるって言ったろ?」
「でも……」
「仕方ない。ここは俺が」シイラインストラクターをやりたくてうずうずしていたアキラが、どさくさに紛れてみよしに上がろうとする。
 夏樹はそんなアキラを突っ込むことなく無言で引き戻し、ユキの目を見て言った。「覚悟決めろって」
 ユキはその言葉にドキっとして振り返った。
 みんなこっちを見てる。今日は若い女の人が多い。みんな早くシイラを釣りたくて、俺の決断を待ってるんだ。でも、どうしよう……
 般若になりかけるユキに、ハルがのんきに声をかける。「ユキぃー、魚見えるぅー?」
 ハルは自分も偏光グラスをかけて海を泳ぐ魚を見たかっただけだったのだが、その言葉がユキの好奇心に火をつけた。
 ユキは恐る恐るみよしへと戻り、偏光グラス越しに海を見てみた。
 すごい!
 思っていた以上だった。まるで水族館みたいに、目の前で泳ぐ魚がありありと見える。その中に、おでこが出っ張った、ちょっと不恰好だけど可愛げのある魚たちがいた。
 シイラだ!
 ユキはちょっと先の未来の自分を想像してみた。あの口にルアーを引っ掛けて、駆け引きをしながら、激しく暴れるシイラを釣り上げる。それは今、目の前にある恐怖や不安を差し置いてでも飛びつきたくなるほど強い誘惑だった。
 ユキは覚悟を決めた。もう振り返らない。このまま、まっすぐ海の方へ体を向けて、そして、
「エノ、シマ、ドン」
 しかし揺れが怖くて、ロッドの振りも小さくなる。
「ユキ、ビビるな!」夏樹が鬼コーチに戻って叫ぶ。「投げ過ぎてもあとから巻けばいい!」
 ユキは背中で頷き、もう一度ロッドを振った。
「エノ、シマ、ドン」
 また振りが小さくて、ルアーはシイラたちの手前に落ちてしまった。
 女性客の一人がしびれを切らせて歩に尋ねる。
「船長、あの子大丈夫なの?」
「大丈夫です」歩はちょっと食い気味にそう返し、ユキに叫んだ。「ユキ! どうだ、楽しいだろ!?」
 ユキの背中が大きく頷いた。
「じゃあ笑え! シイラも笑って待ってるぞ!」
 ユキは嬉しかった。ちょっと涙が出そうになった。自分のことをよく知らないはずの船長が、なんであんなに大きな声で背中を押してくれるんだろう。
 もう大丈夫だ。行くぞ。せーのっ!
「エノ、シマ、ドーン!」
 ユキが投げたルアーは、その掛け声の大きさと比例するように、大きく飛んで、泳ぐシイラの目の前に届いた!
 よし!
 ユキは心の中で、夏樹が教えてくれたコツを繰り返す。左右にジャーキングして誘い出す。来い、来い……
 すると、泳ぎ去ろうとしたシイラがクルっと振り返り、ユキのルアーに食いついた!
 来た!
 落ち着け。ロッドを立てて巻く。シイラが走ったら耐える。走るのをやめたら巻く。
 やがてシイラが海面に姿を現した。
 で、でっかい!
 ハルが叫んだ。「ユキがんばれぇー!」
 ユキの前でシイラがジャンプした。興奮しているのか、色が変わっていくのがわかる。さっきまで銀色だったその体が、陽を浴びて金色に輝き始めた。
 わ、すごい力!
 ユキはシイラに猛烈に引っ張られ、船の上をグルグルと駆け回り始めた。
 みんなも追いかけてグルグル駆け回る。
 ハルは遊園地のアトラクションにでも乗るように「すごいすごーーーい!」と跳び上がって喜んだ。
 やがてユキが立ち止まる。偏光グラス越しの光景に思わず声を失う。駆け回ったユキに誘われて、シイラの群れが集まって来たのだ!
 ユキは昂る胸を押さえ、振り返ってみんなに言った。「な、投げてください」
 歩が笑って耳に手を当てる。「なんだって!? おっきな声で!」
 ユキは微笑み、めいっぱい息を吸い込んで、シイラの群れを引き寄せた喜びを、空と海に解き放った。  
「投げてくださーーーーい!」
 歩が微笑んだ。ハルも、夏樹も、微笑んだ。
 ユキは我先にとルアーを投げる、客たちの弾けんばかりの笑みを見た。
「ほら、海の男になれたろ?」はじめからすべてお見通しだったお茶目な神様の歩が、笑った。

 その日、ユキは胸を張って給料袋を受け取った。
「ありがとうございました!」
 遠くから見ていたアキラは、微笑むユキたちに背を向け、歩き出した。
 タピオカがそれを呼び止めるように「クワっ」と鳴くと、アキラが答えた。
「いや、俺はいいよ。今さら友達なんて」

 帰り道、ユキはここ数日のことを思い出して、誇らしいような、でもちょっとむず痒いような、なんとも言えない気持ちになった。
 今でも信じられない。みんなの前で、あんなに大きな声を出すことができた。なんでだろう。
 と、浜辺で楽しそうに踊るサーファーたちがいる。
「あっ、江の島おどりー!」
 ハルが真似をして踊り始めた。
 ユキはそれを見て笑いながら、また思った。
 なんでだろう。なんで俺はちょっと前の俺と違うんだろう。そういえば今日はばあちゃんのことを一度も思い出さなかった。ついこの間、ばあちゃんが入院する日はあんなに気分が落ち込んでいたのに。
 なんでだろう……それより、なんか風が気持ちいい。
 するとユキの疑問符は、風に吹かれ、遠くの空を染めるオレンジの中に溶けて消えてしまった……

 青春丸でのバイトを始めて三週間が過ぎた。
 ユキは船板の掃除をしながら何度見ても飽きない海を見た。肌はすっかり黒くなって、仕事に慣れるどころか楽しいとさえ思うようになった。お客さんの釣ったシイラをタモですくって、みんなの笑顔を見るのは楽しい。でもそれよりもっと楽しいのは……仕事の後の船釣り! お客さんが帰った後、船長が釣らせてくれるのだ。ハルと夏樹と俺の三人に、いや、なぜか時々アキラもいるけど。
「見ろよあれ!」
 夏樹が指さした先に、羽ばたく何十羽もの鳥と、海面でジャンプする小さな魚たちがいた。
「ナブラだ」
 ナブラとは水面の小魚の群れのことらしい。小魚たちがジャンプしているのは、海中にいる魚が彼らを食べようとしているからだ。
「ありゃたぶんマグロだな」
 夏樹があの海中にいるだろう魚を推測する。
「ツナロッド持ってくりゃ良かった」
「マグロなんて釣れるの?」
 驚くユキに夏樹が答える。
「あぁ。ま、そう簡単にはいかないけどな」
「マグロかぁ……」ユキは不思議な気持ちになった。マグロなんてお刺身になったところしか見たことがない。それかテレビで見たマグロの解体ショーぐらいだ。そんな魚が、今あそこで泳いでいるなんて……

「いい話があるの」ケイトが病室のベッドから体を起こしてユキとハルに言った。
「今週中に退院できそうなのよ」
「ほんとに?」
 そろそろだとは思っていた。でもいざその時が来ると、ユキはどんな顔をしていいかわからなかった。
 もちろん嬉しい。でもそれは跳び上がって喜ぶようなものではなく、一人で静かに噛みしめたい。そんな種類の喜びだ。
「やったぁー! ユキ、お祝い!」
 ハルはやっぱりハルらしく、跳び上がって喜んだ。
「いいのよ、そんな特別なことしなくても」
 ケイトが微笑んでユキとハルを見た。
 ユキは目をそらした。なんだか照れ臭かったから。それと、自分の中にふと浮かんだ思いをケイトに悟られたくなかったからだ。

「そっか。よかったじゃん」
 夏樹は夏樹らしく淡々とそう言って、待ちきれずにウーウーうなる店長にご飯をあげた。
「僕とユキ、ケイトにお祝いする!」
 ハルはいまだに店長が苦手らしく、少し離れたHEMINGWAYのカフェコーナーで、水をごくごく飲みながらユキと夏樹に叫んだ。
「お祝いかぁ。なんかプレゼントでもあげるのか?」
「うん。やっぱ、魚かなぁって」
 ユキのその言葉に夏樹が鋭く反応した。
「いいじゃん。何釣る? 協力するぞ」
 ユキは一瞬黙って、とっておきのアイデアを口にした。「マグロ」
「マジで?」
「いいねーマグロぉー!」
 ユキは目を輝かせる夏樹とハルに言った。
「ばあちゃん、マグロ好きだし、俺、自分で釣って、ばあちゃんに食べさせたいんだ」

「マグロ釣りか」
 DUCK CURRYの監視モニターの前でアキラが少し身を乗り出した。その目は調査員の目ではなく、好奇心あふれるアングラーのそれだった。
 しかし次の瞬間、アキラは、じっとこっちを監視するタピオカの視線に動揺し、強引に方向転換した。
「まったく、のんきな奴らだ」
 アキラは慌ててDUCKの調査員に戻り、PC画面に表示された報告書を眺めた。それはアキラが作成した、江の島で起きた出来事とバミューダシンドロームの関連を指摘する文書だ。
 アキラがマウスを掴み、添付資料を開くと、新聞の地方欄のベタ記事のコピーが表示された。
【茅ヶ崎でサーファー失踪?「気づいたら江の島にいた」「神隠しか?」と周辺住民】
 そして笑顔で江の島おどりを踊るサーファーたちの画像。
 アキラがその画像を睨むように見ていると、本部との通信モニターが点き、本部のソファに腰かけた、紫ずくめの上司、ジョージ・エースの姿が現れた。
「ヤマーダ、報告書は読ませてもらったよ」
「妙な事件です。地元の警察に聞き込みを行ったところ、例のサーファーたちが嘘を言っているようには思えないと」
「その件についてはこちらもすでに情報を得ている」
 ジョージがアキラの報告を遮るようにそう言ったが、アキラは負けじと報告を続ける。
「もちろん今回の事例は航空機や船舶とは異なりますが、気づいたら時間が飛び、場所が移動していたという点で、バミューダシンドロームと何らかの関係があるのではと」
「ヤマーダ。君に調査を命じているのはその件ではないはずだ」
 ジョージの遮り方はさっきよりも鋭くなった。
「それはわかっていますが」
「引き続き業務を続けたまえ。ダック!」
 本部の会議室の幹部たちが一斉に両手でアヒルを描き、通信画面が切れた。
 アキラは憮然と画面を見つめる。
 あいつら、何かを隠してる。江の島での調査を任されたのは俺なのに……
 アキラはその憤りを指先に込め、PCで『江の島 神隠し』と検索する。
 すると画面に、江島神社や、伝説の絵巻の画像などが表示された。
 こうなったら自分で調べるしかない。

 鳥居とは、神の世界と人間の世界とを分けるもので、それをくぐるということは神の世界に足を踏み入れるということだ。
 その赤い鳥居は仲見世通りの突き当たりにあって、その足元には、来る者の覚悟を試すような、少し急な階段が伸びている。
「神隠し?」
 境内を竹ぼうきで掃いていたその若い巫女は、覚悟を持って階段を上って来たアキラにそう尋ねた。
 白と赤が眩しいその装束に身を包んでいるのは、アキラにとって知らない相手ではない。クラスメイトのえり香だ。
「そういう話ならおじいちゃんに聞いた方がいいかも」
「おじいちゃん?」
「私のおじいちゃん、ここの宮司なの。町長もやってるのよ」
 アキラはそう言って微笑むえり香を改めて見た。
「えり香ちゃん、大分感じ違うね」
「そう? 似合ってる?」
「なんかちょっと、妙な感じだ」
 えり香の頬がちょっとふくれた。
「アキラ君に言われたくない」
 その時、江の島おどりを練習する人々の輪が崩れ、その間から、この江島神社の宮司である宇佐美平八が現れた。白と青の装束に、妙に整えられた白髪とあご髭。不釣合いの赤い縁のサングラスが、その怪しげな風貌にとどめを刺している。  
「あの人?」
「そ」えり香は頷き、アキラに囁く。
「気をつけてね」
「え?」
「コツはね、一々突っ込まないこと」
 アキラはその意味がまるでわからなかったが、少し警戒するように平八を見た。
 平八はえり香からアキラを紹介されると、小さく頷き、本殿へと歩いて行く。
 アキラは警戒を強め、平八の後に続く。
 と、踊りの輪の中にそれを見送る者がいた。
 身を潜めるには派手すぎる少女、ココだ。

 畳の中央に敷かれた赤い座布団の上で、タピオカが少し落ち着かない様子で座っている。
 白い壁と緑の畳のその部屋は、本殿の中の一室だ。
 平八が丁寧な手つきで古い絵巻を開くと、アキラはそこに描かれた光景に思わず身を乗り出した。
 それは江の島だ。海で暴れる龍、その龍に引き込まれる人々、そしてそれを見下ろす天女。
 ココも小窓からそれを覗き込んでいる。
 平八がようやく口を開いた。「この島に古くから伝わる伝説じゃ。神隠しを起こす龍と、それを鎮める天女の話でな」
「龍と、天女」
 訝しむように呟くアキラに平八が言う。
「荒唐無稽だとお思いかな?」
「いえ」アキラは心の中を読まれた気がして慌てて取り繕う。「この龍というのは、つまり、何を指しているんですか?」
「龍は、龍じゃ」
 下らんことを聞くなとばかりに平八が答える。
「しかし、龍というのは架空の生き物では」
「ワシはそうは思っとらん」
 平八が少し気分を害したようにサングラス越しにアキラを見た。「龍はおったんじゃ。神隠しもあった。今はたまたま平穏なだけじゃ」
 アキラはその確信に満ちた口調に黙り込む。
 改めて絵巻を見ると、二つのことに気づいた。天女は二人いる。そして、釣りをしている男がいる。 
 なぜだ……
 アキラが尋ねようとすると、平八がじっと絵巻を見て呟いた。「ここのところ、妙に胸騒ぎがしてな。気のせいじゃったらいいのだが」
 その声はさきほどまでの確信に満ちた口調とは違い、不安に満ちていた。
 アキラはまだ訝しむように平八と絵巻を見ている。
 龍とはなんだ? 天女とは……なんで釣りが関係あるんだ?
 ふとアキラの脳裏にハルとココの姿が浮かんだ。あいつらは宇宙、つまり天から地球に釣りをしに来た。なにか関係があるのか? いや、まさか……
「ところであなた」平八が今度は突然能天気な高い声で切り出した。「髭の生えた魚がお好きじゃろう?」
「はい?」
 呆気にとられるアキラに、平八はニっと微笑み、手の平を合わせた。「ナマズテー」
 ナマズテ。ナマズ。髭の生えた魚。ナマステ。インドの挨拶……俺はインド人……ダジャレ!
 アキラは露骨に顔をしかめたが、窓から覗いていたココは「うまいっ」と真顔で呟いた。
 そして平八はイタズラが大成功した子供のように、逃げるように巻物を手に去って行った。
 な、なんなんだ!
 アキラは脱力し、タピオカを見る。
「タピオカ、俺ほんとに嫌いなんだ。ダジャレってやつが」
「クワっ」
 タピオカも同意してくれた。そう思ったが、タピオカはアキラの視線を誘うように一方を見ていた。
 アキラはその方を見て、ふと身を乗り出した。
 床の間に、体をむくっと起き上がらせたような、緑の龍の彫像がある。
 アキラは一瞬、その鋭い目にひるんで後ずさったが、すぐにまた身を乗り出した。
 龍の像は何度か見たことがある。しかしこれは他の物とは違う。口に何かをくわえている。それは木彫りの魚。いや、よく見れば、その尾に何かついている。針!? ル、ルアー!? なぜだ……
 ココが窓の向こうからそれを見て、「ナマズテー」と、アキラの背に向かって手を合わせた。

「マグロを釣りたい」ユキがそう言った日からそのレッスンは始まった。バイト終わりの船の上で、歩と夏樹による、マグロ釣りのレッスンだ。
「これはギンバルベルトっていってな」
 歩がユキとハルの腰に黒いベルトを巻きながら言った。「この凹みにロッドの先をはめて支えるんだ」
「マグロはでかいからな」と夏樹が補足する。
「これがないとロッドごと海に持っていかれる」
「ルアーはこれを使う。ペンシルベイト」
 歩の言葉にハルが食いついた。「ペンシル。鉛筆!」
「そう。鉛筆みたいに形が単純だから、ただ巻きだけじゃアクションしてくれない」
 歩がペンシルベイトを海に投げて実演を始める。「こうやってロッドを下へあおって海に潜らせる。餌に見せかけてちょっと泳がせてから、海面に浮かせる」
「ジャーキングの誘い出しってやつだ」
 歩と夏樹はあうんの呼吸だ。ユキの釣りのコーチはこの夏、二人に増えた。
「この繰り返しでマグロを引きつける。うまくいけば海面に浮かせた時にマグロが食いついてくる。やってみろ」
 歩に言われた通り試してみようとするユキとハルの耳に、聞き慣れた鳴き声がした。
「クワっ」
 気づけばアキラがマグロを狙っている。
「お前、何してんだ」
 アキラは呆れる夏樹に、三人目のコーチよろしく語り始める。「マグロ釣りで一番大事なのは正確なキャスティングだ。マグロは警戒心が強いからうかつに近寄れない。ワンチャンスを逃さずに正確に投げることが必要とされる」
 ユキは三人目の怪しげなコーチを唖然と見て、ハルは怯えるようにその背中に隠れている。
「インド、大事なのはそれだけじゃないぜ」
 ヘッドコーチの歩が貫録を見せる。
「大物釣りはな、釣る奴と船を操る奴のチームワークが大事なんだ」
 チームワーク?
 ユキは驚いた。釣りにチームワークが必要だなんて、今まで聞いたことがない。
 百戦錬磨の歩が、まだまだ見習いの海の男であるユキとハルに告げる。「たとえかかったとしてもマグロは逃げ足が速くて引く力がすごい。船を操る奴が下手だったらすぐにぶっちぎられちまう」
「なんか、難しそうだね、マグロ」
 少し弱気になったユキに夏樹が微笑む。
「大丈夫。絶対釣る。問題は場所なんだ」
「場所?」
「確かにキャスティングやチームワークも大事だけど、その前に、あいつらがいる場所を見つけなきゃ話にならない」
 ユキは目の前に広がる海を見た。この中のどこかにでっかいマグロがいる。そこは言うまでもなく彼らのテリトリーだ。それを俺たち人間が居場所を突き止め、駆け引きをしながら釣り上げる。釣りとはつまりそういうことなのだが、改めてそう思うと、ユキは自分がなんだかすごく無謀なことを始めてしまったような気がした。

「ロッドを下へあおって海に潜らせる」
 ユキは夕ご飯を早々に済ませると、ロッドを握る手つきで、コーチの教えを復習し始めた。
「餌に見せかけてちょっと泳がせてから、海面に浮かせる」
 ハルはといえば、コーチの教えなどすっかり忘れてしまったのだろう、お気に入りの江の島おどりを踊っている。するとその動きは、テレビから流れる相撲中継のせいで、いつしか四股を踏む力士の動きへと変わっていった。
  
「なぁにいちゃん、あのへん鳥、凄くない? あっち行けないの?」
 翌日の船釣りバイトの途中で、釣り客が夏樹に尋ねた。
 ユキが客が指した方を見ると、遠くの海に妙な金属の物体が浮かんでいる。海面から顔を出して、波に合わせてゆらゆら揺れている。それは船のような、大きな円筒のような……その体に書かれた剥げかけた文字「明海」。そしてその周辺には無数の鳥が群がっている。
「ああ、『明海』ですか」
「アケミ?」
 ユキとハルは夏樹の説明に耳を傾けた。
「明るい海って書いて明海。人工の魚礁で」
「ぎょしょう?」
 ユキが思わず繰り返すと、またしても客として船に乗り込んでいたアキラが淡々と答える。
「魚類の繁殖と生活のために人為的に水中に設置される障害物のことだ」
「ぜんっぜんわかんない」
 アキラは早々にさじを投げたハルに要点だけを投げた。「要は魚がたくさん集まるところだ」 
 客に迫られ、困る夏樹の元に歩がやって来た。
「お客さん、あそこはだめなんですよ。釣り禁止って決められてて」
「なんで魚がいるのに、禁止?」
 アキラもユキと同じことを思ったようだ。
「怪しいな」そしてこっちへ歩いて来た夏樹に疑問をぶつける。「地元の人間だけの秘密のポイントか?」
 夏樹は歩の方を気にして声を潜めた。
「ほんとは釣り禁止なんて規則ないんだ。でも地元の奴はマジで行かない」
「ナンデ?」
 ごく当たり前の疑問を口にしたハルに夏樹が言う。
「詳しくはわかんないけど、昔、あの辺りで漁船が消えたって話があってさ」
 それを聞いたアキラは、タピオカと目を合わせ、遠い海に浮かぶ『明海』へと目をやった。

「明海」の付近は、薄くかかった靄のせいもあり、どこか不気味な空気が漂っている。ブクブクと気泡を放つその海の中、無数の魚の群れの真ん中に、何かが蠢いていた……

「お前ら、一か月、ご苦労さん!」
 歩の底抜けに明るい声が、ユキとハルの生涯初のアルバイトに終わりを告げた。
 ユキとハルと夏樹は胸を張って給料袋を受け取り、過酷な戦地を生き抜いた兵士たちのように微笑み合ってその労をねぎらった。
「すっかりたくましくなりやがって。助かったよ、ありがとな!」
「こちらこそ、ありがとうございました!」
「センチョー、ありがとねー!」
「ありがとうございました!」
 歩は三人三様の「ありがとう」を大きな口で吸い込み、「よし、来い!」と両手を大きく広げた。
「……え?」
 突然の展開に戸惑うユキに夏樹がうんざりと囁く。「毎年恒例」
 ユキの耳に歩の心の叫びが聞こえた気がした。
「この胸に飛び込んで来い!」
 歩はきっとそう言っているのだ。
 そりゃ、気持ちは飛び込みたいけど……
「ほら、どうした! 照れんなよ!」
 でも俺、そんな熱いことしたことないし……
「やんないと終わんないから」夏樹が観念したように囁いた。「いくぞ。せーの」
 ユキが覚悟を決めて、海の男の胸へと飛び込もうとしたその時、
「どすこーーーい!」
 新米の海の男だったはずのハルが、なぜか新米の力士となって猛然と走り出した。
「よっしゃーーー!」
「危ない!」
 ユキと夏樹が叫んだが、遅かった。 
 ハルと歩は、抱き合うように海へと落ちて行った。
 落ちる寸前に見た二人は笑顔だった。それどころか歩の「ウホホホホーー!」という意味不明な喜びの声まで聞こえた。

 バイト最後の日も歩はユキたちのために船を出してくれた。
「いいぞ、だいぶ自然になってきた」
 夏樹が、家でたっぷり練習してきたユキのジャーキングの動きに及第点を出した。
 操舵室ではアキラが歩から船の操縦の仕方を聞いている。
「あいつらが主役なら」と、歩が釣っているユキたちの方を見て言う。「船長ってのは釣り人を陰から支える渋~い脇役よ。釣ってる奴の動きをよおく見て、声を掛け合って、奴らが釣りやすい完璧な位置に船を動かす。ゆっくりナブラに近づいたり、時にはマグロの進行方向に先回りしたり。で、かかったら一気に距離を詰める」
 歩のその熱意とは裏腹に、アキラは受け流すように「なるほど」と言って、本題を切り出した。
「もう一つ聞きたいことがあるんですけど」
「なんだ? なんでも聞けよ船のことなら」
「マグロって、明海にもいるんですか?」
 歩の顔から笑みが消えた。「さぁ。あそこは最近誰も近寄ってないからなぁ」
 途端に棒読みになった歩をアキラが追い詰める。
「それは、船が行方不明になったから?」
 歩はもうお手上げだった。元々隠し事は得意じゃない。「なんだお前、船の操縦教えて欲しいっていうからよぉ」

 百戦錬磨の船長も、今日はツキがなかった。ユキたちのクーラーボックスの中は小物ばかり。いきなりマグロが釣れるとは誰も思っていなかったが、相手はかなりの強敵で、釣れる気配すらなかった。
 そして歩の言葉が沈むユキと夏樹にとどめを刺す。「おい、ぼちぼち戻るぞ」
「え? でもまだ暗くなってないし」
「気持ちはわかるけどな。潮目も変わったし、俺もこれからちょっと寄り合いがあってな」
 夏樹は悔しげに目を伏せた。しかし未練たっぷりに海を眺めるユキの横顔は、その何倍も悔しげに見えた。
「ま、他の奴に船出してもらってもいいけど」
 歩はそう言った後に、ふと真顔になった。
「明海はだめだぞ。絶対行くなよ。いいな?」

「すいませんでしたー」
 夏樹が船宿から出て来て、ユキとハルに顔をしかめた。「どこも空いてねえな、船。まいったな。マグロは陸からはまず釣れないしなぁ」
「よかったら、俺の船で行くか?」
 三人がその声の方を見ると、黄色いワンボックスカーに寄りかかって微笑むアキラがいた。

 純白のクルーザーが、夕陽に染まる水面に波しぶきを立てながら進んでいる。
 操縦しているのはアキラで、デッキでキャスティングをしているのはユキとハルと夏樹だ。
「くそっ、俺も釣りたいな」
 アキラがデッキを振り返り、悔しげに呟く。
 そしてじっとこっちを見るタピオカを見て、いつものようにアングラーから調査員へと戻る。
「わかってる。これは調査だ」
 アキラの前にはカラフルなレーダーがある。異星人に反応すれば、二つの球体が回転して知らせてくれるのだ。
 アキラは平八の話を信じた訳ではない。海の中に龍がいるなんて、そんなバカげた話はない。しかしここ江の島近辺の海で異常が起き始めているのは事実だ。龍じゃなくても何か未知なる生物が、あの海の中に潜んでいるのかもしれない……

「くそっ、けっこう投げたけどなぁ」
 悔しげに吐き捨てる夏樹にユキが言う。
「場所が悪いのかな」
「でもこの辺でマグロ釣ったって話聞いたことあんだけどなぁ」
「あっ」ハルが一方を指さした。
 遠くに明海が見える。
 ユキと夏樹は思わず顔を見合わせた。
「……行ってみるか」
 しかしすかさずユキが言う。「でも、船長が」
「わかってる。でも、絶対いるぜ、マグロ」
 するとクルーザーが停まり、アキラがやって来た。
「だったら行かない手はないな」
 そしてアキラは、ユキの葛藤を情緒でぶち破る。
「釣りたいんだろ? ユキ」

 アキラがクルーザーのスピードを上げると、見る見る明海が近づいて来た。
「見ろ」
 明海の周りの光景は圧巻だった。海面近くで大小さまざまな魚が群れを成し、飛び跳ねている。そして空からは無数の鳥の群れが集まって来ている。
「すごい」
 ユキが思わずそう漏らすと、夏樹も興奮を隠せず「俺も初めてだ、こんな穴場」
 その時、巨大なナブラの中からバシャン! と黒い背中が跳ねた。
「マグロだ!」
「ほんとに!?」
 ユキもハルも思わず身を乗り出した。
 そして夏樹が操舵室のアキラに叫ぶ。
「アキラ、ゆっくりナブラに近づけ!」
 夏樹が興奮を引きずったままロッドを構えると、ユキがそれをやんわりと制する。「大丈夫」
「え?」
「俺、釣るから。釣りたいんだ、自分で」
 夏樹はユキのその頼もしい言葉に微笑み、ユキを陰で支える決意をした。「距離見ろよ。いけるか?」
 見るとナブラまでけっこうな距離がある。
「……やってみる」
「逃すなよ。ワンチャンスだぞ」
 しかしユキは緊張と興奮からか、いつものキャスティングができず、狙いは大きくそれ続けた。
「落ち着け。アキラ! もう一回戻れ!」
 それを何度か繰り返すうちにアキラも焦れてくる。「なんだよ、しっかり狙えよ」
「焦んなよ」と夏樹が言う。「思い出せ、バケツ入れた時」
 ハルが微笑む。「エノシマドンだよ、ユキ」
 ユキは頷き、再び近づいた巨大なナブラ目がけてロッドを振りかぶる。「エノ、シマ、ドン!」
 するとついにルアーがナブラの中へ吸い込まれた。
「いいぞユキ!」
 ユキは逸る心を必死に抑え、頭の中で歩の教えを復唱し、ジャーキングを試みる。「ロッドを下へあおって海に潜らせる。餌に見せかけてちょっと泳がせてから、海面に浮かせる」
「今だ、引け!」
 夏樹の言葉を合図に、ユキがルアーを引き上げる。
 すると、グン! とユキのロッドがしなった。
「来た!」
 その瞬間、白い航跡が猛烈に遠ざかった。
 そしてリールからラインが音を立てて放たれた。
「止まるまで待てよ」と夏樹が言う。「ラインたるませんなよ!」
 ユキは頷き、ギンバルベルトにはめたロッドを握り直し、膝を曲げて踏ん張る。すると、ぐっ! と引っ張られる感触がユキを襲った。
「来た」ユキは確実にマグロの力を感じた。
「巻け! アキラ、距離詰めろ!」
 アキラが夏樹の言葉に頷き、ナブラ目指して走る。
「ちょ、力、すごい!」
 勝負はあっという間についた。ユキがマグロの引きの強さに耐え切れず、逃してしまったのだ。
「くそっ」
 夏樹が自分のことのように悔しがると、操舵室からアキラが叫んだ。「何やってんだ。船停めるぞ!」
「なんでだよ!」夏樹も叫び返す。
「ユキじゃ無理だ。俺に釣らせろ!」
 夏樹がユキを見る。「どうすんだ、ユキ」
 一瞬答えに詰まったユキに夏樹が語気を強め、もう一度問いかける。「どうすんだ、ユキ!」
「釣るよ。絶対釣る!」
 夏樹は頷き、アキラに叫ぶ。
「アキラ! あとワンチャンスだ!」
「何度やっても同じだ!」
 アキラはやはり歩の言葉を聞いていなかった。大物釣りに大切なのはチームワーク。しかしアキラは頼りないユキを見限ろうとしていた。
「バカヤロウ!」夏樹がそんなアキラの目を覚まさせようと叫ぶ。「信じろよ! ユキが釣らなきゃ意味ねえだろ!」
 ユキはその言葉にハっとなった。
 そうだ。俺が釣らなきゃ意味がない。ぜったいに、釣らなきゃ……
「ユキ、ばあちゃん待ってんぞ」
 ユキは夏樹に強く頷き、再びロッドを構えた。

 HEMINGWAYでは、海咲が何度も時計を見ていた。「大丈夫。そろそろ戻って来る頃だから」
 海咲は店長と遊ぶさくらを安心させようとそう言ったが、その目はまた不安げに時計を見た。
 カウンター席で熱い紅茶をすする歩がさくらに微笑む。「さくら、いい子にして待って な」
しかし歩も不安を感じ、無言で海咲と目を合わせた。

 ユキのロッドがまたしなった。
「来た!」
「頼むぞアキラ!」
 夏樹が叫んだがアキラの返事はない。夏樹は操舵室へ走り、苛立ちをアキラにぶつける。
「お前返事しろよ!」
「聞こえてるよ! お前も落ち着け!」
 マグロを釣りたい。その思いは夏樹もアキラも同じだ。しかし薄暗い空が今にもタイムアップを告げそうで、二人とも苛立ちを抑えきれずにいる。
 ユキはそんなみんなの思いを一手に背負っているが、やがてマグロに引っ張られ、体勢を崩しそうになる。
 と、夏樹が走って来て後ろからユキを支える。
 ハルも慌てて支え、「ユキがんばれーっ!」
 その時、一瞬の静寂が訪れた。マグロの動きが止まり、ラインを送り出すジージーという音も小さくなった。
「あれ、マグロ、静かになった」
 ユキの言葉を聞き、夏樹が間髪入れず叫ぶ。
「チャンスだ、巻け!」
 ユキは慌ててロッドを引き上げ、戻しながらリールを巻く。それをスクワットしながら繰り返す。
「アキラ! もうちょい距離つめろ!」
「わかってる!」アキラが苛立って叫ぶ。
 マグロとクルーザーの距離は徐々に狭まっていく。
「ユキ、巻け! 寄せろ!」
 アキラは、必死の形相でリールを巻くユキを見て呟いた。「上げろよ、今度こそ」
 そして次の瞬間、ユキは声にならない叫びを上げ、一気にリールを巻き上げた。 
 海面に、飛び跳ねるマグロの姿が現れた。
「よし来た!」
 夏樹が迫るマグロにギャフという大きな針を刺し、一気に引き上げる。ゆうに一メートルはあるだろうそのマグロは、デッキでピチピチと跳ねて最後の抵抗を見せた。
「やったぁーーー!」ハルが叫ぶ。
 ユキは一気に脱力し、座り込んだ。
「やったな、ユキ」
 ユキは微笑み、差し出された夏樹の手を握った。
「手こずらせやがって」
 ユキは、やれやれといった表情でデッキに来たアキラに手を差し出した。「ありがと、アキラ」
 思えば面と向かってアキラの名前を呼んだのは初めてだ。でもどうしても「ありがとう」と言いたくて、つい呼んでしまった。
 呼ばれたアキラも驚き、照れ臭さを隠せずにいる。「何言ってんだ、釣ったのお前だろ」
「ううん。みんなのおかげだよ」
 ユキはそんなクサイことを口にした自分に驚いた。
 でも今、この状況に相応しい言葉はいくら探しても他には見当たらなかった。
 と、次の瞬間、それは起こった。
 あれだけピチピチと跳ねていたマグロの動きがぴたっと止まった。
 ユキがそれに気づき顔を上げると、なぜか辺りが静まり返っていて、呆然と佇む夏樹とハルがいた。そして、アキラの姿が消えている。
 ユキが慌てて操舵室に行くと、アキラが唖然と辺りを見渡していた。そしてタピオカが異変を感じたようにクワっ、クワっと鳴き続けている。
「見ろ。明海が、消えた!」
 夏樹の緊迫した声を聞いたユキとアキラがデッキに戻ると、すぐ近くにあった明海がない。巨大なナブラも、けたたましく鳴いていた鳥たちもいない。ただ一面に闇夜の海が広がっているだけだ。
「……これ、どういうこと?」
 ユキの震えるような呟きに、答えられる者はいなかった。
    
 とうとうさくらも店の中の時計を見た。
 歩が不安げな海咲の視線を制し、笑ってみせる。
「こりゃどっかで釣りして時間忘れてんな」
 と、そこへ釣り帰りの平八が入って来る。
「今日はどこもだめじゃ。しびれ切らして、明海に向かった不届き者もおるらしい」
 その一言が押し込めていた歩の不安に火をつけた。
「明海に?」
「まさか、夏樹たち」
 とうとう耐え切れず切り出した海咲の言葉を、歩がすぐさま打ち消した。「いや、ないない。俺行くなって言ったし、あいつらじゃねえよ」
 しかし一同の不安はあっという間にあふれ出し、店長の頭を撫でるさくらの手まで止めてしまった。